失われた自分を求めて

元公務員/元フリーター/元ニート/アラサー/思いは言葉に

映画『主戦場』を観て

これから一週間雨が続くっぽいのですが、いつ洗濯したらいいのかしらん。
布団カバーを洗いたいアラサト(仮)です。

ここ最近、失われた自分を取り戻す一環で、本やら映画やらを漁っておりまして。
先日、『主戦場』という映画を観てきました。英語にすると、
Shusenjo: The Main Battleground of the Comfort Women Issue
(慰安婦問題の主戦場)
です。

いわゆる、慰安婦の問題・論争を扱ったドキュメンタリー的な映像作品です。
もうお分かりだと思いますが、ぼくはかつてないほどに論争がありそうな話題について触れようとしていて、正直ガクブル状態((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル 
なのでいくつか先に言い訳をしておきます。

・慰安婦について専門家ではありませんし、一次資料にもあたっていません。
・なので、数字の正否や各主張や証言の信ぴょう性については言及できません。
・特定の政治的な立場や運動を支持しているわけではありません。
・あくまで作品の内容から感じたことを書きます。


感じたことは2つありました。


1 思い込みを含んだ感情的な対立になりがち

慰安婦に関する様々な事柄について、肯定する見方と否定する見方が展開されます。
一次資料(関係者の証言・関係機関の文書・データ等)を用いながら、議論が積み立てられていきますが、なぜか途中から決めつけや思い込みのような主張もでてきます。

途中までは「ふむふむ、そういう見方もあるのね」と聞いていたら、主張の裏付けとなる理由や根拠について、突如、エビデンスから離れて決めつけのような見方が飛び出す。たとえば、
当時の韓国は日本への憧れからそうしたのだと思う。」
「日本人は嘘をつくはずがない。」
など(記憶ベースなので正確な引用にはなっていませんが)。

「あの人の主張はばかばかしくて、最後まで本を読めなかった」
という初めから価値がないと決めつけるような態度もあった気がします。
あと、女性に対して極めて主観的な(ほぼ差別的な)言動をしている人もいました。

もちろん、全員がそうではありません。発言が切り取られてしまっているのかもしれません。ただ、一般論としてですが、一つの運動や主義を形成するなかで、自身の見解にそぐわない事柄を大雑把に見てしまう傾向があるような気がしました。その大雑把さみたいなものが、事実に基づいて議論するという態度を遠ざけ、思い込みを含んだ感情的対立を助長してしまう場合もあるんじゃないかと。

肯定派と否定派の感情的対立を超える方法ってあるんですかね?
映画で登場する様々な論者を集めて公開で議論する場があってもいいと思いますし、検証委員会のようなものを再度設置してもいいのかなという気もしました。


2 性被害を語ることの難しさ

前提として、ぼくは、性被害に遭ったことがありませんので、性被害を語ることの苦しさや難しさについては想像しかできません。

映画の中で、戦時中慰安婦だった人の証言内容が、時間の経過とともに変わっており一貫性がないことが指摘されているシーンがあります。ただ、それは一貫性がなくても仕方のないことなのではと思いました。

性被害は、根深く残り、その後の人生や考え方にも大きな影響を与えます(たとえばコチラ)。それを自分以外の他者に語ることは、勇気のいることです。ましていわんや、公開の場で不特定多数の人に対して語るとなれば、非常に勇気のいることです。

思い出したくない。
隣人や知人から好奇の目で見られるかもしれない。
間違ったことを言えば誰かに批判されるかもしれない。
政治的に利用されるかもしれない。

実際にそういった不安を抱えて語ったのかは分かりません。ただ、そういった不安を抱えていてもおかしくないことは想像できます。

慰安婦の問題が、戦時下の性的暴行であることも、問題を複雑にしているように思います。1994年のルワンダの虐殺においては、多くのレイプ被害があり、レイプ被害から生まれた子どもへの差別もあるようです(コチラも参照)。
「性的暴行の被害を話す」というのは、過去の問題ではなく、現代の性にまつわる問題でもあります。


ふう。
今日はとても神経を尖らせながら書きました。

最後に余談ですが、
映画の中で、「慰安婦問題って知ってますか」という質問に、日本人の若者が「ちょっと分からない」と答えるシーンがあります。

いや、待って!
知ってる若者もいるよ!無関心って決めつけないで~

と心の中で叫ぶアラサト(仮)でした。