失われた自分を求めて

元公務員/元フリーター/元ニート/アラサー/思いは言葉に

公共のあり方を考えてみた

2020年になりましたね。
門松は冥土の旅の一里塚。
いい言葉です。

今年こそ、失言に気を付けて生きていきます。アラサトです。


2020年記念すべき一発目ですから、ちょっと大きな話をしてみようと思います。
ずばり、公共のあり方についてです。
やばいね。大半がゆるふわとモヤモヤと独り言で構成されたこのブログにあるまじき、ガチ感。啓発度が最大値を記録しています。

公共とはなんぞや?
という感じですが、古典を読んで公共の定義から考えるというのは萎えちゃうのでやりません。ざっくり「公共サービスとそれを提供する公的機関のあり方」とでも思ってください。
転職を機に考えていることなので、転職奮闘記シリーズの番外編みたいな感じです。
新年早々、アラサトの頭の中で渦巻くカオスをぶちまけますので、気分が悪くなったらパプリカを聞いて休んでください。


公共サービスの意義と必要性
一つひとつの公共サービスの究極的なゴールは、国民の生活の充実、具体的に言えば、一人ひとりの幸福の向上だと思います。でも、それを実現するためには、様々なやり方(主義)があります。国は、最低限の生活保障システムを整備し、あとは国民の自由に任せるという考え方。国は、幸福を最大化するために積極的に幅広いサービスを提供すべきという考え方。前者にはもっと介入して格差を是正すべきという批判、後者には国民の自由に介入しすぎだという批判が考えられます。

これらの異なる考え方は、どんな社会を目指すのかにも深くかかわります。目指す社会像を見据えながら、「なぜその公共サービスが必要なのか」「本当に国がやるべきなのか」について多角的に議論するプロセスが大事だなあと思います。まあ、当たり前のこと言ってるだけですが、こういう視点で考えるのってけっこう難しいんですねえ(笑)


その公共サービスは効果的で効率的か
刑罰制度を例に考えてみます。刑罰には、法を犯した人に罰を与え秩序を保つという機能と、法を犯した人を更生させて再犯を防ぐという機能があります。刑務所では木工、印刷、洋裁などの作業がありますが、果たしてこれは再犯を防ぐという目的のために効果的で効率的な方法なのでしょうか。そんな問いが浮かびます。でも、あまり議論されません。他の公共サービスでもそういった議論は少ないと思います。

この問いが放置されてしまう背景には、
予算を適正化するという意識の欠如(スクラップできない)
政策を取り巻く利害関係者からのプレッシャー
議論し検討する時間やその土壌がないこと
といったことが挙げられます。一度、公共サービスが始まると、施設がつくられ、関係者が増えて、簡単には止めたり変えたりできなくなるわけです。


公共サービスのあり方
公共サービスを実行することで、有効性や実態についてデータを収集する。収集した情報からサービスの成果を分析して、より効果的・効率的な方法を模索し実行する。または、社会の変化や新たな社会課題に対応するために必要性の低いサービスを縮減廃止し、新たなサービスを創造する。

これは、技術革新、グローバリゼーション、価値観や生活様式の多様化、など変化する社会に対応するための基本的な方法だと思います。だいぶざっくりしてますが、これが、今のところ、ぼくが考える公共のあり方です。「え、普通じゃん」と思われるかもしれませんが、難しいんですねえ。難しいんですよ、これがまた(笑)

この公共のあり方を実現する上で、ヒントになりそうなものとして二つ気になっています。
「ITの活用」と「他者との対話」です。


IT(情報技術)を骨の髄まで活用する
公的機関の多くは、デジタル・プリミティブ(原始時代)です。紙とハンコ。一太郎。PDFよりFAX。メールより電話。テレビ会議より対面。「デジタルガバメント閣僚会議」というのがありますが、ググってみてください。出席者の机上にはたっぷり紙資料が...

IT利用の意義は二つあると考えてます。一つは、データに基づく正確な現状把握です。公共サービスの必要性を検討するためには、社会で何が起こっているのかを理解する必要があります。社会を理解するためには、なるべく正確なデータがあるに越したことはありません。正確なデータを得るためには、膨大なデータの収集を効率的に行うシステムが必要です。昨年の夏ごろ、統計不正問題が発覚しました。その本質は、①統合された効率的な統計システムが欠如しており、②そのため不必要な人の手作業が生み出されるにもかかわらず、③その煩雑な作業をする人員が不足しているという構造的な問題だと思っています。

もう一つの意義は、情報への容易なアクセスです。セキュアな回線・システムを整備することで、組織内や組織間での情報共有が早くなります。権限に応じて、いつでも、どこでも情報にアクセスすることができる。公的機関に限らず、議員もいちいち役人を呼び出さなくても必要な情報にアクセスでき、国会での議論も活発化するでしょう。役所に情報公開請求がきて、迷宮と化した書庫から対象文書を発掘し、必要な黒塗りを施す作業も減るでしょう。公務員の業務量を縮小し、国民は知りたい情報や知るべき情報を過去に遡って入手することも可能になると思います。

しかし、こういったシステムを整備するためには、多くのお金がかかります。そういったことに税金を投入することを、私たち国民が受け入れられるのか。その是非を冷静に話し合い検討できるのか。
そう、やはり、「人」について考えざるを得ないのです。


他者と協働する対話型問題解決
ITはいわばハード面。環境を変えただけは変わらないと思っています。ITを用いる「人」の考え方や文化が変わらなければ意味がない。外山健太郎の『テクノロジーは貧困を救わない』という著書では、インドの貧困地域の学校にラップトップを配ってデジタル教育を進めようとしたが、結局ラップトップは空き教室に積み上げられ使われなくなっていたという事例が紹介されています。著者によれば、テクノロジーの一番の効果は人間の能力を増強することであり、テクノロジーが変化を起こせるのかは、人間の既存の能力によって決まるとのこと。要は、先見性のある校長、指導力が高い教師などの「人」の力が不可欠ということです。

これは、インドの学校だけでなく、広く公共サービスに言えることだと思います。すばらしいITシステムだけでは意味がない。数字やデータだけでは理解できないことも数多くある。「様々な情報から問いを立てて、他者を巻き込みながら議論して協働できる術」を身に付けた人が必要なのだと思います。この術というかフレームワークはどうやって身に付けられるのか。ぼくは「哲学」に着目しています。前提を問い直し、対話の中で他者の考えと突き合わせて解決の手がかりをつかんでいく。こういった要素が哲学対話にある気がします。そして、それが公共を考え実践する上で、公務員にも私たち国民にも欠け落ちているのではないか、というのが今のところのぼくの結論です。


ダメだ。すっごい疲れちゃった。
ご飯を食べます。
みなさん、すばらしい三が日を。



【参考文献】
外山健太郎著、松本裕訳(2016)『テクノロジーは貧困を救わない』、みすず書房
鷲田清一(2014)『哲学の使い方』、岩波書店