失われた自分を求めて

元公務員/元フリーター/元ニート/アラサー/思いは言葉に

今欲しいのは、一緒に考え続けてくれる「迷う人」

お久しぶりのアラサトです。
夜も更けて、身体も疲れて、そろそろ寝ようかなというタイミングでふっと書く気分になったので、手短に書いて寝ます。


「決める人」と「迷う人」
どちらを上司にしたいかと言われれば、多くの人が「決める人」「決断してくれる人」を求めると思う。決める政治とか、決断力、巧遅は拙速に如かず、など物事を素早く決められることは、社会の中で評価されている気がする。

一方、迷う人や迷う姿はあまり褒められない。優柔不断とか、スピード感がないなんて言われてしまうこともある。たしかに、いつまでも「うーん」と頭を抱えている上司や同僚といると「いや時間は無限にはありませんぜ」と思う。

まあ、ビジネスシーンと生活シーンは判断軸や価値観が違うけど、「迷うこと」はもっと認められてもいいのではないかと思う時がある。ここで言う「迷うこと」とは、「1+1は?」をうーんと考えることではない。答えがすぐには分からない問いや事柄について、慎重さや多角的な視点でじっくり考え続けること。


安心したいから答えが欲しい
Aさんが残忍な方法で人を殺害した。Aさんは普通の家庭に生まれ、大学に行き、企業に勤めていた。「なんであの人が」と言われる。よくよく調べると、学校や職場で酷いいじめにあってきた過去があった。「心の闇」のようなものがAさんを殺人に駆り立てたのでは、と理解したような気分になる。
本当にそうか分からないのに。

白人警官が黒人を殺害した。それは白人警官に黒人への差別感情があったからではないかと理解される。
その白人の脳内を知ることはできないのに。

とある新型のウイルスの感染者数が1桁になったからもう感染はしないと考える。逆に3桁になったらやばいと感じる。感染者の中に若者や特定の職業の者が多いと、若者のせい、夜の町が悪い、みたいになる。
一体何がどれくらい危険なのかということは忘れ去られていくような感覚がある。



迷い続ける体力
決断や判断を保留して、迷い続けることはとても体力のいることだなあと近頃よく感じる。政治家や経営者の決断も、完璧に仕上がった政府答弁も、メディアやネット上での評論や批判も、一見すると見栄えがいい、聞こえもいい。でも聞き飽きた。ぼくが欲しいのはそういうものではない。そういう自己満足的な、自分を安心させるための「決断」や「答え」を聞かされるのは少々うんざりしている。政府にも、メディアにも、友人にも、「答え」はあまり求めなくなっている。

仕事絡みのある人が「一緒に悩んでくれるようなメディアを見たい」と言っていた。同じだと思った。答えのわからないことを、一緒に考え続けてくれる体力のある人がもっと欲しい。答えがすぐには見つからない難題を、保留し、逡巡し、自分の中に滞留させておくことのできる人。そういう人ばかりでも困るけど、もう少しそういう人と出会いたい。

これはどういうことなのかさっぱりわかりませんねえ。
じゃあ一緒に考えてみましょうぜ。

そんなコミュニケーションをもっとしたいし、もっと聞きたい。