失われた自分を求めて

元公務員/元フリーター/元ニート/アラサー/思いは言葉に

偏見のない人なんていない

バリキャリの女の人って、仕事もメイクもバッチリで話しかけにくいけど、話してみると話し方ローラみたいだったり、彼氏の前ではデレデレだったり、意外とカワイイじゃない。どーも、アラサーのアラサトです。


告白します。
ぼくは、人を見かけで判断します。偏見すんごいです。
一人っ子で実家暮らしのB型女子は、とっても面倒くさいと思っています。
「偏見のない社会を」という純粋無垢なキャッチフレーズを聞くと、いやそんな社会はないのよん、と切り捨てています。

大事なのは、偏見をなくすことではなく、自分の偏見を自覚すること。

これが今日言いたいことです。もう満足(*´∀`*)


Wikipediaによれば、「偏見とは十分な根拠もなしに他人を悪く考えること」だそうで。「悪く考える」ってとこは微妙ですが、「十分な根拠なく他人を○○な人と考えること」は誰にでもあると思います。この人って一人っ子ぽいなあとか、コイツ太ってるからわがままそうとかね。

偏見からは逃げられない。
外見や属性でついその人を判断してしまう時が自分にはある。

そういう冷徹な自己評価が、偏見と向き合う第一歩だと思います。
そんな前提の上で、ぼくが密かに実践している偏見との付き合い方をいくつか発表してみます。


無知でいる
そもそも知らなければ偏見は持てないわけです。たとえば、ぼくら日本人が東大生と聞けば、優秀だとか眼鏡かけているとか、いろいろ思い浮かびますね。でも、アメリカの田舎のおっさんが東大生と聞いても、なーんも思い付かないわけです。知らないから。博学・物知りが昨今もてはやされていますが、知識に縛られる危険性もあるわけで。あえて知らないでいること、はけっこう重要だと思います。

会って話す
とはいっても、全てに無知でいることは無理です。同性愛は異常とか、犯罪者は怖い、とかそういう考えは「当たり前」として小さい頃から刷り込まれているもの(幸運にもそうじゃない人もいると思いますよ!)。そんな時は、会って自分の目で確認してみるという作業が大事です。会って話せばわかり合えるとかそーゆー話じゃないですよ。会って話すと、自分が「当たり前」と思っていたことが音を立てて崩れることあるってこと。同性でも大切にしあう関係ってあるんだとか、犯罪者の人も自分と似た部分があるんだとか。

修正する
自分が偏見を持ってしまうことを受け入れます。すると、自分の考えは状況によっては修正されるんだ、という意識が芽生えてきます。ぼくは、出会った瞬間に、その人がどんな性格で何を考えているのかを判断します。なかなかいい趣味でしょ(笑) でも、これはただのクイズで、しかも外れた時がおもしろい。アハ体験。なぬ、そうきたかーーーという喜び。そして、自分の偏見を修正するわけです。いわば、偏見を持ってしまう自分自身を楽しむ、というやや変態チックな営みです。


偏見と闘うために必要なのは、知識や理解ではない。
自分が「当たり前」だと思っていたこと(≒偏見)が実は当たり前じゃないんだ、という発見・転換。これを一度でも経験しているかどうかが、「偏見を持つ自分」と向き合えるかを左右するのだと思います。

そんなかんじで、アラサトは、今後も偏見まみれの自分と付き合っていこうと思います(* ´ω`*)


※偶然、関連した記事を見つけましたので、ぜひご一読を。

www.bbc.com